Fallout4はいろいろ酷評されることが多いタイトルだけれど、これは以前、僕もここやSteamのレビューで書いた。
最近、Oblivionをパッケージ購入し、遊んでいると、いろいろ気づかされる点が多かった。今回は、Fallout3、NVと4の違いについて、思いついた限り、散文で書いておこうと思った。もちろん、最近このブログがもろもろの日本語化サイトと化していることは理解しているが、そもそもそういう目的でブログを開設したのではないし、ここは僕のサイトなわけだし。
Fallout3やNVと4の違いで、一番最近感じるのはキャラクタの性格というか、設定だろうと思う。
例えば、3のメガトンやNVの派閥(NCRやシーザーなど)は、自己の権益と保身に懸命で、壁の外には全く興味がなかった。それでも外を探索する連中を、馬鹿にするわけではないけれど、物好きのように扱われることが多かった。
メガトンのモイラ・ブラウンはかなり狂った女性だが、それは現代のわれわれから見れば狂っているけれど、彼女は彼女で、崩壊した文明の世界にどのように生き延びるか、どのような危険に対処するかを考察し、命知らずの111を雇って大金を払い、仕事をさせていたわけで、考えてみれば狂っているのではない。驚くべき商人なのだ。彼女と111が作成した「ウェイストランド・サバイバルガイド」はその後、様々な人々に読み継がれる名著となっているわけだけれど、これも決して未来を志向したものではない。いわば、目の前の、1日先を見るだけの対処方法であって、文明再建なんてどうでもいいのだ。
キャピタル・ウェイストランドのレイダーが人間を狩猟し、捕食しているのも、いわば毎日生き残るための方便であって、現実的にあり得る話だろう。
NVでも、主人公の目的と、様々な派閥の目的は四方八方に飛び散っていて、どこにゴールがあるのか、そもそもゴールはいくつあるのか分からないような世界観が広がっているが、それが核戦争後の世界という観念を、プレイヤーに植え付けた。
ところが、Fallout4は文明再建をテーマにしているとしか思えない内容になっている(ヌカ・ワールドを除き)。キャラクターたちは、この世界をより良くしようとしている。他人の行動に干渉し、驚くほど親切だ。
キャピタル・ウェイストランドやヴェガスの人々が、まるで放射能に脳までやられてしまったようなほど、無関心で無寛容であったのに、ボストンの人々は親切で、自我の欲望を驚くほど自制している。
この違いは大きいような気がする。
まるで、4の世界はただ文明が崩壊しただけの、いわば枯渇した炭鉱を抱える地方農村のようなもので、放射能の影響や決定的な人間の変化が見られない。
インスティチュートと地上の人々との違いを見ても、これはわかり易い。インスティチュートの人々は、限りなく戦前の人々を写しているはずで、地上の人々とは価値観や考え方が全く違うはずなのだ。キャピタル・ウェイストランドのような世界が地上に広がっているとすれば、インスティチュートの人々は、人造人間を大量に製造し、人々を「浄化」というきれいな言葉で抹殺していたのではないか。
これは、ゲームのシステムからくるものだろうか。僕は、設定からくるもののように思う。某世紀末漫画が、当初は壮大なギャグマンガとしてスタートしたものの、読み手が真剣になってしまったことから、壮大な世紀末列伝に軌道修正しなければなかったように、Falloutというタイトルを継承したメーカーは、「新鮮な肉だヒャッハー」世界から「壮大なポスト・アポカリプス列伝」に軌道修正しなければならない、それも商業的な意味合いから、そう認識した結果が、このようなFalloutの性格変化、軌道修正なんじゃないか。
今のところ、散文的だけれどそう思っている。